山域・コース | 伯耆大山・三徳山(投入堂) |
実施年月日 |
2009年06月25日(木)夜発〜27日(日)朝
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参加者 |
杉本夫婦
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コースタイム |
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06月25日(木)夜 〜26日(金) |
26日23:00自宅発→<伊勢湾岸・東名・名神・中国自動車道>→
鳥取・溝口I.C.→大山寺(登山口)
9:00登山口発→<夏山登山道>→11:15頂上11:40→元谷分岐→<元谷コース>大山寺 登山口→三朝温泉 →←人形峠 往復後車中泊 |
06月27日(土)〜28日(日)朝 |
8:00三徳山入山→投入堂→9:35下山
三朝→浜坂(加藤文太郎記念館)→余部鉄橋→28日7:00自宅 (車の走行距離は1000kmを越えた) |
行動記録 休暇が取れどこか遠くへと考え,最初は新潟の八海山を考えたけれど,あまりに遠く, 35年ぶりの大山行となった。 山岳部の最初の合宿・雪上訓練や部のヒュッテなど思い出深い山域だ。 26日 何となく出発が遅くなり,高速のS.A.ですぐ寝てしまった。 27日 西宮名塩S.Aで大山に行くには,溝口I.C.で下りればいい,3時間ほどで登山口だと教えられ, 高速道路が発達して大阪から日帰りの山だと感じた。 何となく,岡山から伯備線で米子へさらに日の丸バスで大山寺へ行った記憶から,遠い山だと思いこんでいたのに。 登山口では大型バス2台の小学生?の集団が出発するところで,前後して登るのはかと思うと,平日の静かな山行を期待していたので 残念だった。 北壁を見ながら途中で小学生?の集団のを追い抜いた。子供がストックをつっかているでびっくりした。私たちは。ストックを忘れ 何となくピッチが上がらず,ストックの威力を痛感した。 頂上は崩壊対策が行き届き公園化していた。剣が峰からユートピアまでの縦走路は 崩壊が進み立ち入り禁止で縦走ができなかったのは 残念だった。 下山は元谷コースをとり大山寺を散策した。奥宮,宝物殿等拝観料の必要な所に初めて入った。 山中の登山者に較べ大山寺の観光客は少なく静かだった。 以前は交通の便が悪く行きそびれていた人形峠を往復し,三朝温泉で一風呂浴び,静かな公園の駐車場で車中泊とした。 周りは田んぼで気持ちのいい夜だった。 | |
阿弥陀堂と弥山頂上から見た剣が峰への縦走路 | |
博労座からの大山遠望と大神山神社石段 | |
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28日 今日はこの旅行の一番の楽しみの「投入堂」へ行く。8時開山で早めに到着し,料金所でかなり待ち一番乗りをした。 待っている間に,高齢の観光客の集団が柵など無視して平気で入っていくのには,かなりの年齢になってしまった自分から見ても 情けない行為だった。 「投入堂」への登山道は,山慣れていれば取り立ててどうということのない道だが, 途中のお堂や鐘つき堂はよくこのような場所に,重機のない時代に建てたものだと感心した。 「投入堂」は期待に違わず,どうして建てたのかわからない不思議な感じのするお堂で, いつまでも見飽きなかった。お堂のある岩盤は 凝灰岩?で,登れる箇所は濡れていて近寄りがたそうだ。でも資料館で,鳥取高等女学校の遠足の写真では何人かの人は 投入堂の柱に登っている写真があったので意外と簡単にお堂には入れるのかもしれない。 ご本尊の蔵王権現も何か軽快な感じで,空を飛べた役小角にふさわしいように思われた。 | |
人形峠ウラン鉱床発見の碑と投入堂 | |
三徳山を後に,山陰海岸を東に進み,歩く機会の無かった鳥取砂丘を¥により,浜坂の憧れの岳人の一人だった加藤文太郎の 記念館に向かった。新田次郎の「孤高の人」は嫌いだったので, 新田次郎色が少し鼻についたが,当時のスキー板やピッケル・アイゼン 鋲靴等興味深かった。墓まで見に行ってしまった。この後温泉で汗を流し,余部の鉄橋を見て帰途についた。 | |
加藤文太郎のレリーフと余部の鉄橋 | |